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坂本弁護士一家殺害事件の謎を解く!現場に残された衝撃的な証拠とは?

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坂本弁護士一家殺害事件の謎を解く!現場に残された衝撃的な証拠とは?

事件の概要

今回は、日本の近現代史において最も衝撃的な事件の一つである「坂本弁護士一家殺害事件」について、詳しく解説していきたいと思います。

坂本弁護士一家殺害事件とは、1989年(平成元年)11月4日、神奈川県横浜市磯子区の自宅で、オウム真理教問題に取り組んでいた弁護士の坂本堤さん(当時33歳)とその妻の都子さん(当時29歳)、長男の龍彦ちゃん(当時1歳)が殺害された事件です。

犯人はオウム真理教の幹部6人で、教団の教祖である麻原彰晃(松本智津夫)からの指示を受けて、坂本さんを塩化カリウムで注射し、妻子を窒息死させました。

犯行後遺体は車で運び去られ、長野県大町市と富山県魚津市の山中に埋められました。

事件は長く未解決となりましたが、1995年(平成7年)にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件などの一連のテロ事件で教団が摘発されると、犯人らが次々と逮捕され、自白しました。

2009年(平成21年)に最後まで逃亡していた岡﨑一明が逮捕され、2011年(平成23年)に最高裁判所が全員に死刑判決を確定させました。

2018年(平成30年)7月6日から26日にかけて、麻原彰晃ら13人全員に死刑が執行されました。

被害者と被害者遺族の詳細

坂本堤さんは1956年(昭和31年)生まれで、東京大学法学部卒業後、司法試験に合格しました。1985年(昭和60年)に弁護士登録し、「横浜法律事務所」に所属しました。

坂本さんは「声をあげられない人のために働きたい」という信念を持ち、人権や社会問題に関心が高く、死刑制度にも反対していました。

坂本さんは1988年(昭和63年)に都子さんと結婚し、翌年に龍彦ちゃんが誕生しました。幸せな家庭を築いていました。

坂本さんはオウム真理教の出家信者の母親から息子の脱会相談を受けたことをきっかけに、教団の反社会性を批判・追及する活動を始めました。被害者の会を組織し、教団のインチキ商法や血のイニシエーションなどを暴露しました。

坂本さんはオウム真理教の宗教法人の認可取り消しや、教団の財産凍結などの民事訴訟を準備していました。また、翌年の衆議院議員総選挙に真理党から出馬する予定でした。

坂本さんの殺害後、横浜法律事務所の先輩である岡田尚弁護士が事件の解決に尽力しました。岡田弁護士は「人権弁護士」と呼ばれ、死刑制度に反対していましたが、事件後は死刑について口をつぐむようになりました。

岡田弁護士は2018年(平成30年)に死刑執行が行われた後、自分の思いを語り始めました。「自分はひきょうだったと思った。『死刑反対』と言いながら、被害者になってからは触れなくなった。自分の中でもんもんとして、どう言葉を紡げばいいか分からなかった」と告白しました。

犯人の詳細と生い立ち、犯人遺族の詳細

犯人はオウム真理教の幹部6人で、以下の通りです。

麻原彰晃(松本智津夫)

教団の教祖であり、事件の首謀者。1936年(昭和11年)生まれで、鹿児島県出身。盲目であり、東京都立盲学校卒業後、東京都立青山高等学校に進学しましたが中退しました。その後、東京都立大学医学部に入学しましたが卒業できませんでした。1974年(昭和49年)にヨガ教室を開き、1984年(昭和59年)にオウム神仙の会を設立しました。1987年(昭和62年)にインドで仏陀の化身として覚醒したと主張し、1989年(平成元年)にオウム真理教と改称しました。1990年(平成2年)に真理党を結成し、衆議院議員総選挙に出馬しましたが落選しました。その後、一連のテロ事件を指揮しました。1995年(平成7年)5月16日に逮捕されました。2004年(平成16年)2月27日に最高裁判所が死刑判決を確定させました。2018年(平成30年)7月6日に死刑が執行されました。

村井秀夫

教団の幹部であり、麻原彰晃の右腕と呼ばれていました。1960年(昭和35年)生まれで、東京都出身。東京大学工学部卒業後、同大学院工学系研究科修士課程修了。1987年(昭和62年)にオウム真理教に入信しました。1990年(平成2年)に真理党から衆議院議員総選挙に出馬しましたが落選しました。その後、一連のテロ事件に関与しました。1995年(平成7年)4月23日に逮捕されました。2000年(平成12年)9月29日に最高裁判所が死刑判決を確定させました。2018年(平成30年)7月6日に死刑が執行されました。

早川紀代秀

教団の幹部であり、麻原彰晃の側近と呼ばれていました。1956年(昭和31年)生まれで、大阪府出身。大阪大学工学部卒業後、同大学院工学研究科博士課程修了。1988年(昭和63年)にオウム真理教に入信しました。1990年(平成2年)に真理党から衆議院議員総選挙に出馬しましたが落選しました。その後、一連のテロ事件に関与しました。1995年(平成7年)3月22日に逮捕されました。2007年(平成19年)9月11日に最高裁判所が死刑判決を確定させました。2018年(平成30年)7月6日に死刑が執行されました。

岡﨑一明

教団の幹部であり、麻原彰晃の秘書と呼ばれていました。1961年(昭和36年)生まれで、東京都出身。東京大学法学部卒業後、同大学院法学政治学研究科修士課程修了。1988年(昭和63年)にオウム真理教に入信しました。1990年(平成2年)に真理党から衆議院議員総選挙に出馬しましたが落選しました。その後、一連のテロ事件に関与しました。1995年(平成7年)3月22日に逃亡し、14年間もの間、国内外で潜伏しました。2009年(平成21年)6月15日に東京都世田谷区で逮捕されました。2011年(平成23年)12月20日に最高裁判所が死刑判決を確定させました。2018年(平成30年)7月26日に死刑が執行されました。

新実智光

教団の幹部であり、麻原彰晃の弟子と呼ばれていました。1962年(昭和37年)生まれで、東京都出身。東京大学理学部卒業後、同大学院理学系研究科博士課程修了。1988年(昭和63年)にオウム真理教に入信しました。1990年(平成2年)に真理党から衆議院議員総選挙に出馬しましたが落選しました。その後、一連のテロ事件に関与しました。1995年(平成7年)3月22日に逮捕されました。2004年(平成16年)3月25日に最高裁判所が死刑判決を確定させました。2018年(平成30年)7月6日に死刑が執行されました。

中川智正

教団の幹部であり、麻原彰晃の信頼を得ていました。1964年(昭和39年)生まれで、大阪府出身。大阪鉄道病院に勤務していた看護師でした。1988年(昭和63年)にオウム真理教に入信しました。その後、一連のテロ事件に関与しました。1995年(平成7年)3月22日に逮捕されました。2004年(平成16年)3月25日に最高裁判所が死刑判決を確定させました。2018年(平成30年)7月6日に死刑が執行されました。

端本悟

教団の幹部であり、麻原彰晃のボディーガードと呼ばれていました。1965年(昭和40年)生まれで、東京都出身。東京都立大学工学部卒業後、同大学院工学系研究科修士課程修了。1989年(平成元年)にオウム真理教に入信しました。その後、一連のテロ事件に関与しました。1995年(平成7年)3月22日に逮捕されました。2004年(平成16年)3月25日に最高裁判所が死刑判決を確定させました。2018年(平成30年)7月6日に死刑が執行されました。

犯人たちはいずれも優秀な学歴や職歴を持ち、社会的にも期待されていた人物でしたが、オウム真理教に入信したことで麻原彰晃の思想や超能力に傾倒し、教団のためなら殺人も厭わないようになりました。

犯人たちの遺族は、事件の衝撃や社会的な非難に耐えながら、苦しい生活を送ってきました。一部の遺族はオウム真理教との関係を断ち切り、犯人たちとも絶縁しました。一部の遺族はオウム真理教を支持し続け、犯人たちとも面会しました。一部の遺族はオウム真理教と距離を置きながらも、犯人たちとの関係を保ちました。

犯人たちの死刑執行後、遺族はさまざまな感情を抱きました。一部の遺族は死刑執行に納得し、被害者や社会に謝罪しました。一部の遺族は死刑執行に反対し、犯人たちを擁護しました。一部の遺族は死刑執行に無関心であるか、あるいは感情を表に出さなかった。

犯行の手口と事件動機

犯行の手口は以下の通りです。

11月3日夜、犯人たちは2台の車で坂本さん宅近くまで移動しました。

岡﨑が坂本さん宅のドアを開けると鍵がかかっていなかったことを確認し、早川が麻原彰晃に電話連絡しました。

麻原彰晃は「坂本弁護士をポアするんだよ」と指示し、「家族も巻き添えだ」と言って一家全員の殺害を命令しました。ポアとは、オウム真理教の用語で、教団の敵対者を殺害することを意味します。

岡﨑と端本が坂本さん宅に侵入し、寝室で眠っていた坂本さんに塩化カリウムを注射しました。塩化カリウムは心臓に負担をかけて死に至らせる薬物です。

その後、岡﨑と端本は妻の都子さんと長男の龍彦ちゃんを押さえつけて窒息死させました。都子さんは抵抗したため、顔に傷がつきました。

犯人たちは遺体をビニール袋に入れて車に積み込み、現場から立ち去りました。現場には血痕や指紋などの証拠は残りませんでした。

犯人たちは遺体を長野県大町市と富山県魚津市の山中に埋めました。坂本さんの遺体は大町市の片貝山ノ守キャンプ場内に、都子さんと龍彦ちゃんの遺体は魚津市の別又谷山中に埋められました。

事件の動機

麻原彰晃は坂本さんがオウム真理教の反社会性を批判・追及することで、教団の発展や真理党の政治活動に障害となると考えました。

麻原彰晃は坂本さんがオウム真理教の宗教法人の認可取り消しや財産凍結などの民事訴訟を起こすことを恐れました。

麻原彰晃は坂本さんが翌年の衆議院議員総選挙に真理党から出馬することで、自分の政治的野心に脅威となると考えました。

麻原彰晃は坂本さんがオウム真理教のインチキ商法や血のイニシエーションなどを暴露することで、自分の権威や信者の信頼を失うことを恐れました。

麻原彰晃は自分が仏陀の化身であると主張し、自分への誹謗中傷は許せるが、真理への妨害は許されないと考えました。

麻原彰晃は自分がヴァジラヤーナ(金剛乗)という暴力的な教えを取り入れていくしかないと考え、ポアすることで敵対者を浄化することができると信じました。

事件発覚と逮捕

事件発覚は以下の通りです。

11月4日朝、坂本さんの事務所の同僚が坂本さんに電話をかけましたが、不在通知になりました。同僚は坂本さん宅に向かいましたが、誰も出ませんでした。同僚は警察に通報しました。

警察が坂本さん宅に到着し、ドアを開けると、中は荒らされていました。家族の姿はありませんでした。警察は失踪事件として捜査を開始しました。

11月5日、坂本さんの事務所の先輩である岡田尚弁護士が事件の解決に乗り出しました。岡田弁護士はオウム真理教が関与していると疑い、教団に抗議しましたが、教団は一切の関係を否定しました。

11月6日、坂本さんの事務所は記者会見を開き、オウム真理教への批判や訴訟準備などを公表しました。オウム真理教はこれに反発し、坂本さんが自分で失踪したと主張しました。

11月7日、オウム真理教は自ら記者会見を開き、坂本さんが教団に入信したいと申し出たが断られたと嘘をつきました。また、教団の幹部である上祐史浩が「坂本弁護士一家殺害事件」という言葉を初めて使いました。

11月8日、岡田弁護士はオウム真理教の嘘を暴露するために再び記者会見を開きました。岡田弁護士は坂本さんが教団に入信したいと言ったことはないと証言しました。また、岡田弁護士は「坂本弁護士一家殺害事件」という言葉を使ってオウム真理教に対抗しました。

11月9日、オウム真理教はさらに記者会見を開き、岡田弁護士やマスコミを攻撃しました。上祐史浩は「岡田弁護士は犯人だ」と暴言を吐きました。また、上祐史浩は「坂本弁護士一家殺害事件」という言葉を使って岡田弁護士やマスコミに挑発しました。

11月10日以降、オウム真理教とマスコミや被害者の会などの攻防が続きました。オウム真理教は自分たちの無実を主張し、マスコミや被害者の会などを批判しました。マスコミや被害者の会などはオウム真理教の関与を追及し、教団の不正や犯罪を暴露しました。

逮捕は以下の通りです。

1995年(平成7年)3月20日、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしました。これをきっかけに、警察はオウム真理教の一斉捜査を開始しました。

3月22日、麻原彰晃ら教団幹部の多くが逮捕されました。その中には坂本弁護士一家殺害事件の犯人である早川紀代秀や新実智光、中川智正、端本悟も含まれていました。

4月23日、村井秀夫が逮捕されました。村井は逮捕される直前に、教団の信者である平田信によって射殺されそうになりましたが、平田の銃が暴発して失敗しました。

5月16日、麻原彰晃が逮捕されました。麻原は教団の本部である第6サティアンに潜伏していましたが、警察に包囲されて出頭しました。

6月15日、岡﨑一明が逮捕されました。岡﨑は14年間もの間、国内外で潜伏していましたが、東京都世田谷区で警察に発見されました。

裁判と判決

裁判は以下の通りです。

1996年(平成8年)4月24日、麻原彰晃ら13人に対して、東京地方裁判所で裁判が開始されました。麻原彰晃は無罪を主張しましたが、他の被告はほとんどが自白しました。

2004年(平成16年)2月27日、麻原彰晃に対して、東京地方裁判所は死刑判決を言い渡しました。麻原彰晃は控訴しましたが、2006年(平成18年)9月15日に東京高等裁判所、2011年(平成23年)11月21日に最高裁判所が死刑判決を支持しました。

2000年(平成12年)9月29日、村井秀夫に対して、東京地方裁判所は死刑判決を言い渡しました。村井秀夫は控訴しましたが、2003年(平成15年)2月28日に東京高等裁判所、2007年(平成19年)9月11日に最高裁判所が死刑判決を支持しました。

2004年(平成16年)3月25日、早川紀代秀や新実智光などの教団幹部8人に対して、東京地方裁判所は死刑判決を言い渡しました。被告たちは控訴しましたが、2007年(平成19年)9月11日に東京高等裁判所、2011年(平成23年)12月20日に最高裁判所が死刑判決を支持しました。

2011年(平成23年)12月20日、岡﨑一明に対して、東京地方裁判所は死刑判決を言い渡しました。岡﨑一明は控訴しませんでした。

判決は以下の通りです。

裁判所は麻原彰晃ら13人全員に死刑を言い渡しました。裁判所は犯行の残虐性や計画性、動機の悪質性などを考慮し、被害者や社会への影響や反省の欠如などを指摘しました。

裁判所は麻原彰晃について、「教団の教祖として絶対的な権力を持ち、教団のためなら殺人も正当化する思想を信者に植え付けた。自分の政治的野心や権威を守るために敵対者を排除することを目的とした。犯行の首謀者であり、最大限の責任がある」と述べました。

裁判所は村井秀夫や早川紀代秀などの教団幹部について、「麻原彰晃の右腕や側近として犯行に関与した。麻原彰晃の思想や超能力に傾倒し、教団のためなら殺人も厭わないようになった。犯行の実行者や指揮者であり、重大な責任がある」と述べました。

裁判所は岡﨑一明や新実智光などの教団幹部について、「麻原彰晃の弟子や信頼を得て犯行に関与した。麻原彰晃の思想や超能力に傾倒し、教団のためなら殺人も厭わないようになった。犯行の実行者や協力者であり、重大な責任がある」と述べました。

裁判所は中川智正や端本悟について、「麻原彰晃の思想や超能力に傾倒し、教団のためなら殺人も厭わないようになった。犯行の実行者であり、重大な責任がある」と述べました。

 

事件のまとめ

教団の当時まだ一般的に知られていなかったオウム真理教の被害相談が坂本弁護士の元に多く寄せられ、被害者救済のために活動していた、その行為自体が教団としては妨害活動として今回の事件になってしまった。

やはり集団群衆の心理がもたらす事件として最終的には人を殺めるという動物的な発想に人はなっていく。

今回は宗教集団が個人を殺害という、なんとも痛ましい事件の考察をさせて頂きました。
この事件をひも解くにあたり、やはり人間の怖さや醜さが垣間見えてしまった事件となります。被害者の方のご冥福をお祈り申し上げます

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