事件概要
1923年9月6日に発生した「福田村事件」は、関東大震災後の混乱と流言蜚語が生み出した社会不安の中で、香川県からの薬の行商団(配置薬販売業者)15名が千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)および隣接する田中村(現柏市)それぞれの自警団に暴行され、9名が殺害された事件です。この事件は、被害者と加害者の人々に対する尊重と理解が必要な歴史的な出来事です。
事件の詳細は今なお明らかではありませんが、「行商団一行の話す方言(讃岐弁)が千葉県の人には聞き慣れず、ほとんど理解できなかった」「千葉県の人との意思疎通の際に話す標準語も発音に訛りがあり、流暢でなかった」などを理由に朝鮮人とみなされ、一連の事件が起こったとの証言があります。当時22歳で生き残った行商団員が残した手記や、当時14歳の行商団員の証言でも、地元の船頭との言い争いの中で「どうもお前の言葉は変だ、朝鮮人と違うのか」と言われて自警団が集まってきたとされています。
背景として、日本統治時代の朝鮮では独立運動が勃興しており、本事件の4年前の1919年(大正8年)に起きた三・一運動では、デモが朝鮮全土に広がり、鎮圧に軍が出動していました。内地では歪曲報道され、放火、略奪、虐殺を繰り返す集団を一般的な政治犯とはせず、「土匪・匪賊」と呼んでいたことから、朝鮮人は日本の言うことを聞かない「不逞の輩」として、日本全土で官民による差別や弾圧が強まっていたことが挙げられます。さらに、関東大震災の当日・翌日には、関東各地の警察が「朝鮮人に気をつけよ」「夜襲がある」などと、官の側から流言蜚語をまき散らしたとされています。
この事件は、社会的な偏見や差別、流言の影響がどれほど深刻な結果をもたらすかを考えさせるものであり、歴史的な出来事として記憶されています。
事件の被害者と加害者
被害者は、香川県三豊郡(現在の三豊市)の薬売り行商人15名で、そのうち犠牲者は、妊婦や2歳、4歳、6歳の幼児を含む9名(妊婦の胎児を含め、10名とする場合もある)でした。被害者一行は被差別部落出身であったとされています。
加害者は、現場の福田村の自警団員4名および隣接する田中村の自警団員4名で、彼らが事件に関与していました。事件について調査を行った石井雍大によれば、出所した中心人物の一人は後に、選挙を経て村長となり、村の合併後は市議会議員を務めたということです 。
事件の背景:
「複合差別」と社会不安の中で広がったデマが事件の背景にあったとされています。
行商団の方言(讃岐弁)が千葉県の人には聞き慣れず、ほとんど理解できなかったことや、標準語の発音に訛りがあり、流暢でなかったことから、彼らが朝鮮人とみなされ、事件が起こったとされています。
「福田村事件」は、日本社会に深刻な影響を与えた歴史的な事件です。以下に、その影響をいくつか挙げてみましょう。
- 差別意識の浮上と警鐘:
- 事件は、差別や偏見がどれほど深刻な結果をもたらすかを示す警鐘となりました。
- 社会的な不安や流言蜚語が、被害者と加害者の間で暴力を引き起こす原因となったことが明らかになりました。
- 被害者の権利意識の喚起:
- 事件は、被害者の権利を守るための運動や啓発活動のきっかけとなりました。
- 人々は、差別や暴力に対して声を上げ、社会的な変革を求めるようになりました。
- 歴史的記憶と教育への影響:
- 「福田村事件」は、日本の歴史的記憶に刻まれており、教育機関で取り上げられています。
- 学生たちは、この事件を通じて差別の問題や人権について学び、理解を深めています。
- 社会的対話と反差別運動:
- 事件は、社会的対話を促進し、差別撤廃のための運動を活性化させました。
- 人々は、差別をなくすために共同で取り組む必要性を認識しました。
総じて、「福田村事件」は、日本社会において差別問題や人権意識についての重要な議論を呼び起こし、歴史的な出来事として記憶されています。